若者なのに老いを感じる葛藤

若い世代の役割は、社会の中で生産的な行動を通じて成長し、現実を切り開くことにある。年老いた世代の役割は、長年の経験や知識を蓄え、次の世代へ伝えることである。

こうした役割分担は長らく社会に根付いてきた常識であり、僕もまたそれに準じた存在であるはずだ。しかし、情報発信者として活動する中で、この枠組みの中に自分を位置づけることに難しさを感じている。

僕が日々取り組んでいるのは、過去の経験や考えを掘り下げ、それを文章として形にし、記録として残すという行為である。この行為自体は、まるで年老いた人間が自分の知見を整理して未来に託す「伝承」のようである。実際、僕は文章を書くとき、自分自身の経験を内省し、それを言葉にしてまとめることに多くの時間を費やしている。だが、この行為は同年代の人々が日常的に取り組んでいる「生産的な活動」とは異なる性質を持つ。

情報発信を続けていると、自然と自分の中に年齢以上の「精神的な老い」を感じる瞬間がある。それは単に疲れや孤独感から来るものではなく、自分の価値観や考え方が、同世代の感覚から少しずつ離れていくことへの自覚。現実社会における同年代の友人たちが、共に楽しみ、未来への夢を語り合う中で、僕は彼らとは違う次元の問いに取り組んでいるのではないかと感じることがある。とはいえ、決して彼らを下に見ているわけではない。むしろ、目の前の時間を存分に楽しみ、純粋に未来に向かって進んでいくその姿を、心の底からうらやましく思うことさえある。

例えば、同世代の仲間が将来の目標を語るとき、彼らが追い求めるのは、いわゆる「いま」を楽しむことや、成功への具体的な道筋である。しかし僕は、自分が発信する言葉が、誰かの未来にどのように影響を与えるのか、何を残せるのかという視点で物事を考えてしまう。この視点の違いが、同年代との感覚のズレを生んでいると実感している。

自分の立場は若者でありながら、その内側では高齢者のような感覚が芽生えている。文章を書くこと、情報を発信することは、生産的である一方で、受け継ぐ行動でもある。そのため、僕自身が同年代の中でどこか浮いてしまう感覚を持つのは避けられないのかもしれない。

それでも、僕はこの活動を続けたい。僕の言葉が誰かの心に届き、次の行動のきっかけとなる瞬間に価値があると信じているからである。若者としての生産的な役割と、伝承者としての内省的な役割。その両方を同時に担うことが現代社会における僕の使命なのだと思っている。

この葛藤に向き合いながら、僕は自分の中にある「若さ」と「老い」の交錯を受け入れていきたい。言葉を通じて何を残し、どのように社会とつながっていけるのかを、これからも模索し続けるつもりである。

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